【ヘーゲル入門】彼の経歴をサクッと振り返って理解の手掛かりに

そもそも哲学書は超難解でわけが分からないものですが、ヘーゲルの著作に関してはさっぱり理解できない人がほとんどじゃないかと思います。かくいう私もその一人です。

そんなヘーゲルですが実生活は庶民的というか極めて地味なものでした。そんな一人の天才哲学者の生涯を振り返ってみたいと思います。

専門用語、関連用語は使わずに簡単に書いています。より詳しく知りたい方は他の書籍も参考にして、理解を深めてください。

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ヘーゲルの生涯をざっくり振り返る

青年期のあだ名は「おじいさん」

学校のイメージ

ヘーゲルは1770年、ドイツのシュツットガルトで誕生します。役人の息子ということでそこそこの家柄です。中学高校は優等生として一目置かれますが、大学に進むとよく授業をさぼり、教授をはじめとした周囲の評判も悪かったようです。

学生時代のあだ名は「おじいさん」でした。このことからもやけに落ち着いていて、なんか鈍い雰囲気が伝わってきますよね。中高のルールに縛られた生活の中では力を発揮できても、いざ大学で自由に勉強しろと言われて何をしていいかわからなくなる、というのは私たちにもよくあることです。

通っていた大学は神学校でヘーゲルも聖職者になりたいと最初は思っていましたが、人前で話すことが苦手なことに気がつきます。そして、だんだん性格が内向的になり自分の内側と対面する機会が増えていきました。一言で言うと「ひきこもり」だった学生時代です。

順風満帆とはいかなかった青年期

一人でベンチに座る人

大学を卒業しても聖職者や役人、教授職に就けなかったヘーゲルは、有名貴族の子供を指導する家庭教師となります。これは中世~近世のヨーロッパではよくあったことで知識人の仕事としては一般的でした。20代の8年間、ベルン、フランクフルトで家庭教師として過ごします。

家庭教師は好待遇で、貴族の館に住み込みで食事付き、自由時間も十分にとることができたようです。この時期に先輩哲学者、特にカントやフィヒテの研究を進めました。また、フランス革命のきっかけとなったルソーの著作も好んで読んだそうです。

ヘーゲルの学問の仕方は今の学問の主流である「積み上げ」です。徹底的に先行研究を調べ上げて、そこから突き抜けていくスタイルでした。現状のすべてをひっくり返してしまうようなひらめきやアイデアとは無縁の、時間をかけて書物を読み込みしっかり論理を組み立てていくものでした。

やっと教授になれたのに…中年期

大学の先生のイメージ

31歳にして、無給ではありましたが大学で講師の仕事に就くことができました。現在でも博士課程を卒業してもなかなか大学で職を得るのは難しいみたいですので、同じような苦労をヘーゲルもしたようです。

論文も立て続けに発表し、数年後には助教授の職を得ます。やっと学者としての生活が安定してきた矢先に、勤めていた大学が戦禍に巻き込まれてしまいます。フランス革命後に頭角をあらわしたナポレオンによる侵攻でした。このことでフランス革命への見方にも変化が生じます。

大学からのお給料も当てにできなくなったので、ヘーゲルは友人の紹介で新聞編集者へ転職します。1年半という短い期間でしたが、収入を得るためには仕方がありませんでした。そして諦めずに教授職を探し続け、ちょっと希望とは違いましたが、今で言う名門中高一貫校の校長職を得ます。これも友人が紹介してくれたものでした。

そしてなんと、あの地味であだ名が「おじいさん」だった男が41歳にして20歳の女性と結婚をします。実は結婚以前にもある女性との間に子供を作っていたり、意外にもヘーゲルは女性好きのやり手だったのかもしれません。むっつりタイプとも言えますか。

念願だった正教授に

高校の校長として8年間過ごしたのち、ヘーゲルにまたとないチャンスが訪れます。ドイツの名門大学の哲学教授のポストです。もう46歳になっていましたが、彼の夢のひとつが叶ったことになります。

大学教授は彼にとって理想的な仕事でした。安定した収入を得られると同時に、哲学研究にも没頭できる。同時代を生きた哲学者よりもかなり遅れを取ってしまいましたが、やっと学者としての安定した生活を得ることができたのです。

そして、今までの彼の苦労が実を結ぶように、さらによいポストが準備されていました。彼の理想と国家の当時の状況がうまいこと嚙み合って、プロイセン(当時のドイツ)の最高学府、ベルリン大学の哲学教授に招聘されたのです。文部大臣と仲が良かったことがきっかけとなりました。

現在では哲学教授は比較的地味な存在で、おしゃれ感も実用性もあまりない日陰の存在ですが、当時は神、法、医学部と並んで重要視された学部でした。今で言う東大法学部の教授みたいなもので、完全に「御用学者」となったわけです。

大学内での派閥争い

大学内での派閥争い

無事に最高学府の哲学科教授となったヘーゲルですが、他学部やほかの教授と仲良くやっていくことができませんでした。なにかと批判的な連中を黙らせるべく、自分も派閥を作りイエスマンで周囲を固めていきます。

学内で敵が多くなってしまった理由として、ヘーゲルが「無神論」的な考えだったことがあげられます。当時のドイツはもちろんキリスト教国でした。権力がキリスト教の神と共にあった時代です。だから神を無視して論理的に考えることは反発を招いたわけです。

ヘーゲル反対派は多かったのですが、彼の講義は抜群に面白かったらしいです。学内はもとより海外からも聴講生が訪れ、世界的な名声を手にします。ただの派閥争いの勝者として歴史に名を残したわけではなく、若い時、孤独に耐えひたすら哲学をかみ砕き自分のものにした成果が、大学教授ヘーゲルの大成の原因と思われます。

学問としての哲学の完成

学問としての哲学の完成

ヘーゲルの哲学の方法は、「体系」とか「統合」と言われます。過去のすべてを調べ上げてまとめ上げて、一つのパッケージにしてそれを学んでいくということです。ヘーゲル以降の「哲学」は「哲学史を学ぶこと」になりました。

ソクラテスやキルケゴールのような「生き方の軸」という意味の哲学は、哲学を学ぶこと、哲学をすることではなくなりました。現在の大学の哲学の講義もひたすら過去の歴史を勉強し、自分の考えは昔に誰かが考えたことに過ぎない、ということを知るためのものになっています。

自分で考えだした論理も方法も、哲学に詳しい人にかかれば「それは○○の××論だね」と言われるのがオチです。恥をかかないために、自分の意見を表明する前に、過去のすべてを調べ上げて、過去の哲学者の威光を借りて自分の論を展開するのが哲学になりました。それがヘーゲル哲学であり、哲学が「哲学の歴史の授業」になった瞬間です。

ベルリン大学の総長、派閥の完成と死

ベルリン大学の総長、派閥の完成

59歳にしてベルリン大学の総長に就任します。その権力は最高潮に達し誰も彼に逆らうことはできなくなりました。国内はもとよりヨーロッパを代表する哲学者となり、地位も名誉も得た彼ですが、一年の総長の任期を終えた直後に体調を崩します。

当時流行していたコレラに罹りあっけなく死んでしまいます。61歳でした。ヘーゲルは幸運だったのか、それともやはり実力でその地位を築いたのか、私にはわかりませんが、当時最高の知識人であり、一つの学派を作り上げたことは間違いありません。

ヘーゲルの代名詞「弁証法」は矛盾の指摘にあります。何事も完成形というものは存在せず、そこに矛盾を見出して、新しいものを生みだしていこうというものです。それは彼が築いたヘーゲル学派も同じことで、彼が唱えた弁証法が皮肉にも学派を解体していくことになります。

まとめ:現代的な学者の生と死

こうやって振り返ってみると、彼の人生はすべて学問と共にあったと言えるでしょう。生活に困窮し誰からも認められない時代はありましたが、そこをしたたかに耐え抜いて、着実に地位を築き、最終的には誰もがうらやむ権力を手にしました。

19世紀を生きた人なので、典型的な現代の学者の一生みたいなものです。そして、彼が作ったものこそ「学者人生というレール」なのかもしれません。若い時に学問の素地を固め、流れが来たらうまく世渡りをし、権力を手にしたらそれをしっかり固める。まさに白い巨塔の世界でしょう。

ヘーゲルの代名詞である「弁証法」を簡単にまとめたページもありますのでそちらもご覧ください。基本的にはとてもシンプルで当たり前の考え方ですよ。

【ヘーゲルの弁証法とは?】具体例を使ってわかりやすく解説します

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