【カートコバーンの素顔】モンタージュ・オブ・ヘック を見て

2023/02/10

雑記

t f B! P L

ニルヴァーナのカートコバーンは27歳で自殺しました。もう30年くらい前の話です。人気絶頂の時期だっただけに、その死は様々な憶測を呼び、多くの人に衝撃を与えましたね。

主に家族やごく身近な人たちの証言とよくできた再現アニメ、ホームビデオを中心としたドキュメンタリーで、カートの普段の様子をうかがい知ることができる、とてもよくできた作品です。

いまさらかよって言われそうですが(2015年の作品)、あらためて感想を書いてみました。

愛情っていったいなに?

母親の、生みの親としての愛情はどうしても溺愛になってしまうもので、それはカートの家庭にも当てはまったようです。父親も扱いにくいカートを持て余していたようだけど、まぁ父親としてきわめて妥当で、どこの家庭もそんなもんでしょう。

家庭なんて、その理想とはかけ離れているのが普通です。

両親のインタビューをみて私が感じたのは、愛情って何なんだろうってことです。

自分に向けられる愛情も、自分が向ける愛情も、人格形成においてたしかに大切なんだろうけど、だけどそれがすべてじゃないと私は思っていて、むしろ思春期の一人でいる時間が本当の自分いられる時間で、その後の人生に大きな影響を与えるんじゃないだろうか。

イライラしていた思春期に彼は音楽に出会って、ひとりでいろんな音楽を聴いてギターを弾いて過ごしていた。それがあったから、のちのミュージシャンとしての活躍が可能だった、と思います。

なんか、愛情が足りていなかったからカートの感情はいつも安定していなくて、それがヘロイン中毒につながり、オーバードーズ、そして自殺に至ったという仮説に基づいて話をしている人が多い印象です。

「彼は傷つくことを恐れていた」

「彼は愛を求めていた」

「彼は批判を恐れていた」

こんな意見を言う関係者もいますが、んー、何かが違う感じがする。

両親を含めた周囲の人はみんな一歩引いた眼で彼を観察していた印象です。同じ目線でとなりに並んで歩いていこう!という人はいませんでした。

一時期付き合っていた彼女もインタビューに答えてくれているのですが、本来のカートとは対峙しようとせずにやはりどこか一歩引いて気を使っているように私は感じました。

そんな周囲の気づかいや遠慮なんか関係なくぶつかっていった、超越したスゲー奴、それがコートニーでした。

コートニーの存在

甘やかしたり気を使ったりすることは愛情じゃない。なんかカートの周りの人は、腫れものに触るように、壊れやすいガラスを扱うように、カートに接している印象でした。

でも、何も身に着けず身構えずに本来の自分を相手にぶつけることが本当の愛情だとしたら、カートにとってはコートニーが唯一そういう相手だったんじゃないかと、私はそういう考えに至りました。

コートニーへのインタビューも本編にあるのですが、たばこを吸いながら、ふてぶてしい態度で当時を語ります。でも、関係者の中で唯一、なんていうか、観察したり評価したり、仮定をしたりレッテル貼りをしたりすることなく、カートと過ごした時間という事実だけについて、たんたんと話をしています。

そこには根拠のない賛美も神格化も貶めもありません。あるのは事実だけ。

当然、ヘロインの問題や過激な言動という問題はあるけど、コートニーラブという人は相当ウツワの大きな人で、これくらいの人じゃないと、カートと対等に接することができなかったんじゃないだろうか。

これを見るまでは、マスコミによって喧伝されていた悪いイメージしかなかったんだけど、コートニーはとても魅力的な女性です。結構多くのホームビデオがこの映画の中にあるのですが、その中でカートとコートニーは本当に自然体でいます。

普通の若くてあぶなっかしいお父さんとお母さんです。

コートニー以外のほとんどの人は気難しいカートをもてあましていましたが、コートニーはそれまでの豊富な経験もあるのでしょうが、カートのもろさや攻撃性を一切考慮せずにガンガンぶつかっていきます。

とても人間らしくて愛情深い、素敵でかわいい女性に映ったし、カートが唯一心を許した女性で、リラックスできる場所を提供できた人だったんだろうなと思います。

いやーびっくりした。HOLEの音楽なんてちゃんと聞いたことなかったけど今更ファンになってしまいました。

あれを見てしまうと、コートニーの愛情は本物で、カートがちゃんと人間であった期間だと言い切れます。

薬物はやはり怖い

薬物はもちろんやってはいけないんでしょう。それはなぜなのか? 

法律で禁止されているからなのか?

答えは「あともどりできなくなるから」なんでしょう。

そりゃ人間ですから、誰にだってつらい時期というものはあります。そういう時に何に逃げるのか。その逃げる先が依存性の強い薬物であった場合、つらい時期が終わって良い時期が来ても、その依存だけは引きずっていくことになってしまいます。

逃げ場所が必要だからって、お酒やギャンブルを肯定するわけではありませんが、ヘロインよりはだいぶマシなんでしょう。

理想を言えば厚生労働省が言うように、適度な運動やアクティビティをしてストレスを発散するのがいいんでしょうが、僕らはだらしがない人間なので、ラクで効果がつよいほうに流れていってしまいます。

幸いここ日本は、薬物が身近ではないので私も手を出さずに済んでいますが、もし簡単に手に入るのであれば、すでに手を出していると思います。ロッカーにはなれなかったけど、日本に生まれ育って本当によかった。

音楽家としての生き方

ベースの人が面白いことを言っています。カートは侮辱されることを一番嫌い、もし誰かに侮辱されると怒りを爆発させた。そうさせないために普通であればコミュニケーションに気を遣うところだけど、彼は自分の音楽を含めたアートワークに過剰なまでに完璧を求めた、と。

知ってのとおり、カートの演奏はけっこう雑で、完璧な、スタジオ録音のようなライブはほとんどありません。ほかにもっと完璧に、芸術的なまでのパフォーマンスをするロックバンドはたくさんあります(カートが嫌いだったあのバンドとか)。

カートはコードを間違えるし、わざと変な歌い方をするし、途中で明らかにやる気をなくして演奏が適当になることもあります。

それらのいったいどこが「完璧」だったのか。答えは音楽や芸術ではなくて、もっとシンプルに彼の体調や気分だったんじゃないんだろうか。

周りの人はその芸術性に焦点を当てて、特別なものにしたがるけど、もっと単純に、今日は一日体調が良かったとか、気分が落ち込まなかったとか、ごはんがおいしかったとか、そういう意味での完璧主義者だったんじゃなかろうか。

過度に神経質な人にとって、そういう平穏で何もないことは稀なので、それを完璧としていたんじゃなかろうか。根拠はありませんけど。

まとめ:僕たちは死んじゃいけないのか?

家族ができたから、この世ですべきことを全部しちゃったから、カートは死んでしまったのかもしれない。そんな感想を私は持ちました。

死は悪いことじゃない。モニターの中のカートは若くてエネルギッシュなままでいてくれるし、その攻撃性も卑屈さも気まずさも、この先ずっとなにも変わらない。周りはどんどん年を取って、まるくなって物わかりの良い大人になっています(コートニーはまだまだトガッってますが笑)。

自死を賛美することは倫理的に許されないことなんでしょうけど、カートの死、芸術家の死は大いに人生の大切な仕事の一部分になっていると思うので、私が将来成し遂げるような犬死とは明らかに意味合いが違ってきます。

カートの寿命は27歳だったんでしょう。彼が作り出した音楽はすべて無垢で暗くて爆発していて、オリジナリティにあふれています。あらためて、僕はニルヴァーナが好きだったんだなと、このドキュメンタリーをみて感じました。

これが感想です。まだ見ていない人はぜひ見てください。そしてコートニーのファンになってください。笑

QooQ