理性と身体からみるカントとルソーの関係性

動物にはなくて人間だけが持っているものはなんでしょうか?

それは理性とか精神なんて呼ばれているものです。

理性は人間の生活に欠かせない、規律とか道徳心のもとになっているものですが、それと同時に私たちが元気に生きられない原因になったりもします。

理性とどのように付き合っていけばいいのか、そんなお話です。

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理性と言えばこの言葉を思い出しますね。

「われ思う、故にわれあり」

デカルトという哲学者の言葉で、理性を的確にあらわした名言です。

デカルトという人は端的に言うと、確かなものを求めてすべてを疑ってみるという実験をした人です。

そして、最終的に行き着いたのが、あれこれ考えている自分の存在は唯一確かなものだ、という結論です。それが人間だけが持つ理性、もしくは精神です。

その後、世界は理性こそ最強だという時代に入っていきます。

それは今でも続いていて、ここ最近はネットの発達もそれを後押しして合理的だとか理性的ということが唯一絶対なもの、という風潮になっています。

理性は体という不完全なもの、心という弱いものの上に存在し、その二つをコントロールできるものとして考えられています。

わたしも大人になってからは、頭で考えることばかりで心と体をおろそかにしてきました。

理性と心の境界線とは?

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大人になるにつれて、ある感情が湧いてきたときに、それが理性からなのか、心からなのか、分からなくなっていきます。少なくとも今の私はそう感じます。

年を取るにつれて、心と理性の境界線があいまいになってきたように感じます。さらに「心ってなんだっけ?」といったところまでこの症状は進んでいるような気がします。

心って感情ですよね。その感情が起こる際に若い時には理性を介さずに衝動的に行動につながっていたような気がしますが、最近は理性を通して、なぜその感情が発生するのかを考える時間ができたように感じます。

これが「大人になるとか」「落ち着く」「丸くなる」ということなのでしょうか?

私はすっかり心や感情、直感を失くしてしまったような気がします。

一度心を失くすと「心ってなんだっけ?」というところにまで行き着いてしまいます。心と理性の関係、感情と思考の関係、これらのつながりはとても複雑で、境界線があいまいです。

怒り」も心ベースだとそんなに強くならないのに、理性ベースだとても大きくなってしまったり、その逆もよくあります。

でも総じていえることは、頭を使うことばかりに気が向いてしまい、心と体のアイデアを聞くことがおろそかになっている自分に気がつきます。

理性が優位の生き方になっていないだろうか?

思索する仏像

心と体はつながっています。そしてその両方に影響を与えるのが理性です。

理性は「こうするべき」とか、「こうでなきゃいけない」という押さえつけの命令をする働きを持っていて、その命令と現実とが大きく離れていると、様々な不調を心と体に引き起こします。

理性のみが「考える」ことができる場所、というのが現代の一般的な考え方ですが、実際には心と体も多くのメッセージを発しています。

さらに、理性は過去と未来に向くことを得意としていますが、心と体は現在のみに反応をすると言われています。今の自分の状態を知りたいときには、頭で考えるのをやめて、体をじっくり点検してみるとよいです。

頭、首、肩や腕…それぞれのパーツの調子はどうだろうか。熱いか寒いか、痛いところやかゆいところはないか…そんな感じで体に注目することを続けていると、心にも目が向くようになります。マインドフルネスもこの手法です。

どうしても頭で考えるクセが付いているので、この変化はとても大きいのです。そして、体をとおして心に語り掛け、そこではじめて理性を発動させるのが健全なのかもしれません。

私はデカくなり過ぎたあたまが完全に優位になっていて、あたまで生み出した理性で心と体を押さえつけてコントロールしようと懸命になっていました。

コントロールをすることに失敗すると、理性への不信感とともに、心と体に悪い影響が出てしまいますし、そもそも理性は心と体に比べると大したことはないのです。それを40歳を過ぎて初めて知りました。理性に頼って多くの失敗をしてきたからこそたどり着けた答えだと思います。

一度理性を完全に手放してみるとよくわかります。

別に犯罪を犯したり自堕落な生活に陥ることもありません。ただ楽になるだけだと気がつきます。心と体に集中して今この瞬間に注意を向けることは、まさにヨガやマインドフルネスと同じですね。

まとめ:理性を捨てて、こころとからだに働いてもらおう

カントという哲学者は理性とコントロールを大切にしました。ルソーという思想家はあるがままの人間を取り戻そうと躍起になりました。

カントはとても規則正しい生活をしていて、毎日決まった時間に同じことをしていたので、周囲の人はカントの行動を見て、自宅の時計の時刻を合わせた、という逸話が残っています。

そんなカントが唯一、いつもの規則正しい生活を乱されたのが、ルソーの著作「エミール」を読み没頭した時でした。

そのエミールの冒頭にはこのように記されています。

創造主の手から出るとき事物はなんでもよくできているのであるが、人間の手にわたるとなんでもだめになってしまう。(中略)人間は何ひとつ自然のつくったままにしておこうとはしない。人間自身をさえそうなのだ。「エミール」ルソー著 玉川大学出版部

理性を大切にしていたカントに、この一説はどのように響いたのでしょうか?

理性に頼らずに心と体の反応を大切に、自然の一部分として生きようというルソーのメッセージがカントの理性に届いた瞬間だったのでしょうか? 面白い思想のコントラストです。

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