【自己愛と利己愛】ルソーが考えた自分との向き合い方

ルソーはその生涯で成功と迫害という両極端の経験し、教育の本を出版したり不平等について考えるなど、人間本来のあり方について、思索を重ねました。その中で重要な位置をしめるのが、自己愛と利己愛、その二つの考え方です。

同じ、自分自身に向けられた愛ですが、何が違うのでしょうか?

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自己愛は自然から生まれるもの

自己愛とは簡単に言うと、自己を愛する気持ちです。

自分を愛して大切にしよう、生きていこうという衝動のことです。この自己愛は人間が健全に生きていくためにはとても大切だと、ルソーは考えました。

より具体的に言うと、自己愛とは人間以外の動物にも生まれた瞬間から自然に備わっている生存本能です。

よく食べ、よく眠り、寒さから身を守り、敵がいれば戦います。要するに、文明に触れていない赤ちゃんや、野生人が持っているもの、ということになります。ルソーは野生人や未開の地の人、「自然状態」が大好きでした。

現代では少し言葉は変わって、自己肯定感などと呼ばれているものがありますが、それとは少し違う考え方だということがお分かりいただけると思います。

ルソーが考えた自己愛という言葉は、自己肯定感より原始的なニュアンスで、彼の考える社会や国家の概念すべての出発点として使われた言葉なのです。

利己愛は社会から生まれるのも

利己愛は他者との関係から自分に芽生えるものです。

あくまで生み出すのは自分です。人から良く思われたい、地位や名誉が欲しい、今の生活を維持したいなど、外の世界との比較が発生源なのです。一言で言うと、欲望ですね。

欲望を満たすためには競争に身を置き常に人の評価を気にするしかありません。相手に勝つこと、どう見られているかを最も大事にしてしまう。

他人への配慮を忘れるのはもちろん、自分への配慮も忘れてしまう感情のことを利己愛と呼びました。自分のことしか見ていない自己愛との大きな違いはここにあります。

今の資本主義は利己愛がベースの社会のように思われます。ルソーが暮らした近世フランスよりも、今の状況はひどいのではないのでしょうか。

ルソーはなぜ自己愛に注目したのか

ルソーは未開の地に住む人が持っているであろう、自己愛(自分の保存)へのあこがれがとても強い人でした。

未開の地では一人ひとりが動物のようにその日一日を生き抜くためだけに活動をし、他者のことに目もくれずに生きている。ルソーはそれを一つの理想として掲げ、野生人としての自然な側面に目を向ける重要性を感じていました。

そして、自己愛とともに注目したのが、人間だけが持っている憐みの感情です。この「自己愛」と「憐みの感情」二つが基礎となって、社会ができればいいなぁと思っていました。

でも、資源が限られてくると、それぞれが持つ自己愛が衝突するのでは? この問いの答えが、「憐みの感情」ということです。

そして、この憐みの感情を失うことなく自己愛と共に大切に育てるには、社会の汚いことから距離を置くことが大切だと、著書「エミール」の中で語られています。

憐みの感情は人間が持っている本能だからです。それをいかに大人になるまで保存できるのか?

自己愛が衝突すると、人間は生き抜くために利己愛に手を染め無秩序状態になるとしたのがホッブズの考えです。それを防ぐのが、この憐みの感情の保存だったのです。

利己愛を生みだすことから逃れる手段は一つしかありません。利己愛の集合体である社会から抜け出すことです。

そして、もう一度自分が生きていくためには何が必要なのかをよく考えて自己愛を育むことをルソーは試みました。

なぜ利己愛は自分を苦しめるのか

とどまるところを知らない心は、さまざまな対象に思いを寄せ、常に、あらゆる種類の興味や、次々と心を占める雑多なものへの愛着に引き寄せられ、自分から遠いところにあった。要するに、ある意味では自分自身のことなど忘れていたのである。私は自分のすべてを外に向けており、常に心を震わせることで、人間的な些事のあれこれにかかわってきたのだ。そのような慌ただしい日々は、一度とて私に心の休息も肉体の安息も与えてくれなかった。よそ目には幸福であっても、どんなに考えつくしても崩れない確固たる見解、心から満足できる意見をもっていなかった。私は他人にも自分にも本当の意味で満足したことがなかった。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫) 

社会的に一度は成功をし、そのあと迫害を経験したルソーは孤独になって考えて一つの結論に至ります。利己愛から生じる憤り、怒り、混乱、それらは孤独でいる限り生まれない。

孤独から生まれるのは静寂と想像だけ。理性という自分の入れ物を再発見できる。それは逃亡なのか、勝利なのでしょうか?

どんな人にも程度の差こそあれ好奇心というものを持っています。その好奇心が自分を社会に連れ出して、評価のもとにさらし利己愛を生みだします。ルソーは晩年、その好奇心を自然に向けました。そして心の平穏を手にしたのです。

引きこもることは、自己完成、自己完結、他者に介入しないという消極的な意味で、善なる存在でいることができる、とも言えますね。

まとめ:利己愛を育てずに自己愛を取り戻す

ということで、自己愛と利己愛の違いとそれぞれの特徴について考えてきました。

人間が本来持っている自己愛は、社会生活の中で徐々に忘れ去られ、利己愛が強くなっていきます。

利己愛は充足を自分の外に求めることであり、自分の大切な部分を他者に委ねることになってしまいます。

そういう時は、引きこもって一人になり、何かに夢中になって自分自身を取り戻すと元気になりますよ、というのがルソーの考えで、植物観察を通して実践したことです。

疲れている人は利己愛が大きくなりすぎているのかもしれません。ルソーの真似をして少し引きこもってみるのもいいでしょう。

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