【孤独な散歩者の夢想】名言からルソーの人物像を検証する【後編】

2021/10/16

ルソー

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孤独な散歩者の夢想」の中から印象的な一文をピックアップして紹介し、

その背景になっているルソーの思考を整理します。

今回は後半の第六~第十の散歩です。


第六の散歩:道徳心とは、善行とは



私は自分の心の動きに正直に従い、他人の心を喜ばすこともできたのである。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


私は結局ただの一度も市民社会にふさわしい人間ではなかった。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


第六の散歩でルソーは、徳、善行について考えを巡らせます。


ここでは一つの例を挙げて説明をしています。

街中の貧しい人(物乞い)への施しを続けていると、ある日、無意識にその人たちに会うことを避けるようになっている自分に気がつきます。


施しを受けているほうは、日々態度が変わっていき、それを当たり前のように感じる。

そして与えているルソー本人は、最初の憐みの心を忘れて義務になっていく。

こうなってくると親切心は自分にとって鎖となり、居心地の悪いものになる。

当然、施しを受ける側も堕落をする。


そこでルソーはこう考えました。

その義務を継続できることこそが徳本当の親切心なのではないかと。

でも、義務の継続ができたとして、思っているような見返りは見込めないかもしれない。

(感謝の言葉とか、態度とか目に見えるもの)


このように、徳を得ようと励んでも、相手に利用されるケースもある。

ではどうすればよいのか。


・我慢して義務を継続し、善人になるか(中途半端な思いつきではなく一貫した想い)

・一切を放棄して無関心になるか

の2択になる。


我々が居るのは、継続性と人格の一貫性が求められる社会。

彼は自身でも述べていますが、移り気で衝動的です。

社会から見るとルソーは気分屋で自分勝手に思われるでしょう。


そんなルソーがこの時点で選んだのは、やはり後者です。

善を行うことをやめた自分に対する弁明が第六の散歩の要点です。


第七の散歩:やっぱり自然観察は楽しいぞ!



ところが、六十五歳を過ぎて突如、植物熱がぶり返した。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


パリに引っ越して、多忙になり、一度はやめた植物採集ですが、数年が経過しその熱が再発します。その一言です。

植物観察と採取には様々な良い効果があるとルソーは結論づけています。


学問や研究としてではなく、あくまでも趣味として形と色を観察し記録を取ることだとルソーは強調しています。

学問には道具と文献と膨大な時間が必要。無駄なものを背負いこむ必要がある。そこには当然、人から認められたいという利己愛の発生する。

いくつか植物学や鉱物学を引き合いに出し、学問や研究になってしまった場合の窮屈さについても述べています。


当時の植物に対する一般の関心は薬草としての効能に向けられていました。

でもルソーは、純粋に目に見える形や色をじっくり観察することを通して、対象は無限にあり、そこに宇宙を感じました。


この観察はルソーをとてもひきつけ没頭させます。

理性でコントロールするのではなく、何かに没頭することによって得られる、現代で言うところのマインドフルネス状態ということになりますね。


学問をするつもりはない。学ぶにはもう年をとりすぎている。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


ルソーは念を押すようにこのようにも書いています。

ただの娯楽であり、忘我、逃避の手段に過ぎなかったのです。

至る所に老いに対する自覚と失望がこの本には書かれています。


第八の散歩:社会と距離を置くこと



私は他人にも自分にも本当の意味で満足したことがなかった。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


逆境によって、私たちは自分への回帰を余儀なくされる。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


ここでは利己愛に支配されていた自分に気がついて、わかったことが書かれています。

ルソーはその著作の中で理想とする社会をさんざん描いてきました。

にもかかわらず、やはり現実の社会に理想を追い求めていたという側面もあります。

でも理想はあくまで理想であり、周囲は彼の理想通りには動いてくれません。


やっと彼は気がつくのです。

そもそも、属していた社会が利己愛によってできた文明であり、そこに充足を求めること自体が間違いであった。

社会と他人に期待しすぎていたのです。

勝手な期待はもちろん簡単に裏切られ、勝手な怒りに代わる。

そこまでルソーは自覚できていました。


でも理想の社会は自分の頭の中以外にどこにもなく、勝手な期待と怒りは増すばかり。

そして、衝動的な自分は理性でその怒りをコントロールすることはできないと気がつきます。

理性でコントロールできない以上、第七の散歩で述べたように何かに没頭し逃避する必要があったのです。


彼らのことは忘れてひとり楽しく暮らすのである。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)

こう締めくくっています。


第九の散歩:自分勝手な他者像



ちょっとでも充足感があれば、それでよしとしよう。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)

幸福は長続きしないという諦観から、このような発言をしています。

全ては移ろう。

自分も社会も移り気だ。

その一瞬が満たされていれば、それでいいじゃないかということです。

そして、誰かが楽しそうにしていると、それは自分にも伝染し楽しい気持ちになるとも述べています。


子供嫌いの人間に「新エロイーズ」や「エミール」が書けるはずがないではないか。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


自分の子供をすべて孤児院に送ってしまったことへの弁明です。

当時の状況がそうせざるを得ないものだったと繰り返し述べています。

本当は子供が大好きだし、無邪気に相手をしたいといつも願っていた。


ここで第六の散歩の「徳には継続が求められる」ことに話が戻ります。

要するに自分も認めているが、かなりの気分屋で、だけど心はきれいで本心から人を愛しているし愛されたいと思っているんだけど、そこに継続性や一貫性がないだけなのです。


礼儀にかなった態度だと思った。私はとても満足し、慇懃無礼な態度よりもよほど立派だと思った。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)


ある日ルソーは、遠足にきている修道女と二十人ほどの少女たちを見かけます。

そこに駄菓子屋が福引などをもってきて商売を始めました。

ルソーは駄菓子屋を呼びつけて、代金はすべて払うから子供たちみんなに福引をやらせるように仕込みます。

子どもたちは当然大喜びで福引をし、たくさんのお菓子を手に入れます。

引率の女性にも声をかけるルソー。

嫌そうに拒否をされたらどうしようかと悩みながらも、福引に参加するように声をかけたのです。

彼女は快く申し出を受けて福引を回し、お菓子を手にした。その態度が潔く自然で、ルソーはとてもよい気分になった。

その時、自分の期待通りのリアクションを得られた満足がこの一節になっています。


もし、この引率の修道女が「お菓子は十分に与えているので結構です」とか「私は修道院の規則でお菓子は食べないのです」などと言って断っていたら、ルソーの気分は害されたでしょう。

せっかく善意で申し出たのに、と。


要するに彼は、自分がした善行に対して、期待通りのリアクションが得られればその相手を称賛し、自分も満足をします。

逆に、ルソーが思っていたような、勝手に期待していた結果を得られない場合は、相手に対し嫌悪感を抱き、もう二度とこんなことはしてやらないぞ、と傷つき誓うのです。

そんなことを繰り返していたのが、彼の人生です。


第十の散歩:大切な人との思いで



地上に生を受け、七十年間生きたが、本当の意味で生きていたのはあの七年間だけだ。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)

この一文は古典からの引用のようです。

実際のルソーはこの時六十六歳でした。

この第十の散歩はルソーが亡くなったため途中までの短いものになっています。

中心になるのはヴァランス夫人への思いです。

早くに両親と別れ、誰かに庇護されている安心感というものが終生なかったルソーにとっては、ヴァランス夫人という保護者と暮し、様々な分野の本を読み知識を蓄え、安心して毎日を送ることができたあの時間を、唯一の生きた時間と形容しています。

ここで終了するのが何ともまた、憎いというかルソーはわざとここで終わりにしたのでは?とも思ってしまいます。

結局、かわいらしい少年の一面をいつまでも忘れなかった、大思想家、それがルソーだったと私は感じました。


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