ルソーが晩年に執筆した孤独な散歩者の夢想
心が移ろうままに記したエッセイです。
モンテーニュ「エセー」を意識していますが、ルソーは出版の意志はこれっぽちもなく、あくまでも自分の心の計測のための日記だと書いています。
他の記事で、ざっくりとした内容には触れました。
今回は第一から第五の散歩の中から、印象的なフレーズを紹介し、その背景を探ってみたいと思います。
第一の散歩:散歩と夢想が持つ効果ついて
いや、むしろ、とりとめのない世俗的な関心がすっかり失われたからこそ、内面的で道徳的な心の動きは活発になっているような気さえする。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
夢想と孤独の効用としての道徳心の回復が、この章のテーマです。
本来人間は善の存在だと仮定することが、彼の理論の根底にあります。
それは生涯変わらなかったようです。
本来持っている善は世俗的な関心によって失われ、人間は堕落し最終的には社会全体の腐敗に及んでしまうと考えていました。
社交界ですっかり「他人の目」によって人を傷つけ、自身も傷ついたルソーは、一人になり何もかも捨てたときに改めて自分の中にある善の存在に気がつきます。
この一節は、人間は本来「善」だという説を、自身の体験を通して証明しようとしている部分になります。
第二の散歩:生きる意味と意識を失った話
私はこの世で何をしただろう。生きるために生まれたのに、生きた証しも残さずに死ぬ。 「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
生きた証しとはなんでしょうか?
そもそもそんなものは存在しないし、「存在証明書」なんかを誰かがくれるわけでもない。
多くの人が生きた証を求めて生きている間に様々なことに挑戦し失敗し傷つきます。
でも実際に生きていると実感できるのはどんな瞬間なのか。
ルソーは散歩と夢想、自然観察に没頭しているときが生きていると実感できていた、とこの時過去の回想のなかから気がつき、書き記しました。
うっとりするぐらい穏やかな気持ちだった。何度思い返してみても、これまでにどんな行為において感じた快楽とも似ても似つかない穏やかな気分だったのだ。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
ある日ルソーはパリの街角を散歩中に、グレートデーンという大型の犬にぶつかり転倒し、大けがをしてしまいます。
頭を地面に強く打付けしばらく気を失い、意識を取り戻したときの感想がこの一節です。
よく寝た後の頭がすっきりしたあの感覚に近いのでしょうか。
でもこの時の頭部へのケガは、晩年の死因につながっているとも言われています。
第三の散歩:40歳という節目の振り返り
悪徳の傾向などほんの少しもないのに悪い習慣に染まり、理性的な信条ももたぬまま偶然にまかせて生きてきた。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
ルソーの才能が花開いたのは40歳を前後しての頃でした。
確かにルソーのそれまでの人生は自暴自棄ともいえる感情的な言動が多く、何か一つに打ち込むことができない、そんな青春時代を過ごしてきました。
40歳になったら社会というしがらみから抜け出して自由になるんだ!と決意していたルソーでしたが、ちょうどそんな折に、懸賞論文で注目の的となり、実際に富と名誉を手にします。
でも、それを手放して自由になりたいと考え始めます。
結局ルソーは変わらない。同じ場所に居続けることができない性質でした。
その根源にあるのは、自己矛盾です。
社交界に身を置くことは、少なからず嘘やお世辞を許容することを意味します。そんな小さなことでも、自分自身との乖離を感じて、甘んじることができないルソーの真面目さとモラリストの側面が表れています。
これでいいのか? 自分に嘘をついていないか?
どんな時でもそれを考え続けた人生でした。
人生に対しては理性的なんだけど、今という瞬間に対しては衝動的ともいえます。
第四の散歩:幼少期についた嘘について
その噓が残したいつまでも消えぬ後悔の念が私に噓の怖さを教えた。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
16歳の時、雇い主の家でリボンを盗んだルソーはうそをつき、使用人であるマリオンにその罪を着せます。
そのことがどうしても引っ掛かって晩年になるまで忘れらないのです。
自分はなぜあんなことをしてしまったのか、嘘とは何かについて、この第四の散歩では考えています。
どうでもいいことを隠したり、偽ったりしても罪なのか?
自分でどうでもいいと判断しても、誰かにとっては大切なことかもしれない。
公益を考えてその事柄の有益性を判断し、有益性が高いと思われることに関してはいついかなる時も真実をつたえるべきなのか。
ルソーは結局のところ、直感や道徳心に委ねるとしています。
そして、今までにマリオンの一件以外には嘘はついていないとしながらも、その場その場でついてしまう「優しい嘘」に関してはその限りではないと、矛盾したことも言っています。
この考察では、誰かを貶める嘘をついた場合に最も苦しむことになるのは、将来の自分であるということをルソー自身が証明する形となっています。
そのことについて真剣に考えるルソー。
自分の利益のための噓は詐欺、他人のための噓は欺瞞、人を傷つけるためにつく噓は誹謗中傷であり、これが最も卑怯な噓である。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
この章では、嘘についてこのように結論付けています。
人を傷つけるためにつく嘘、すなわち誹謗中傷によって、ルソーは苦しめられたと被害妄想を大きくしていた時期でもありました。
それもあって、自身の潔白と周囲の攻撃的な態度を批判した形です。
第五の散歩:サン・ピエール島での自然散策
こうして、いつの世も、常に弱者は強者の利益のために身を削られるのである。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
小さい島はそうこうしているうちに姿を消してしまうだろうとも言っています。
ルソー自身は人生を通して弱者でも強者でもありませんでした。
裕福ではなかったですが、とても魅力的で天才的な頭脳も持っていたので富を得るチャンスはたくさんありました。
ですが、長いものに巻かれることを潔しとしなかった。
だから晩年は特に貧困に苦しむことになります。
削られ姿を消していく小さな島は、重税に苦しむ民衆のことだったのでしょうか。
それとも、自身の大切な部分のことだったのか。
強者は社会的な欲、弱者である小さな島は自己愛の部分とも考えられます。
自分の存在そのものが優しく大切なものになる。「孤独な散歩者の夢想」 (光文社古典新訳文庫)
無為の時間の重要性。何もしないことは最高の喜び。
15年前の島での思い出をパリで思い出すルソー。
パリ市内を散歩していた時の夢想が、島での何もしない時間の重要性を喚起したようです。
自分を生かすためには、他人の目の監視下に自分を置いて鞭をうち、100%の力を発揮しようと努めるべきなのか。
それとも、なにもノルマのようなものがない、一見成長をあきらめてしまった態度から、生きているナマの実感は得られるのか。
思い返すと、ボートに寝そべって湖をただ漂って過ごしたり、植物採集をしたりしていたときのことを振り返り、そんなときが最も自分自身を生きていたという感想に至ります。
次回は後半、第六から第十の散歩を見ていきましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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