【釣りエッセイの傑作】開高健「完本私の釣魚大全」を再読

2021/09/07

雑記 釣り文学

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アイザック ウォルトン「釣魚大全」へのオマージュ

開高健の「完本私の釣魚大全」

釣り人は誰でも自身の釣魚大全が頭の中にあるでしょう。

でも、昭和のインテリ釣り人である氏の

目線と表現は他とは一線を画します。

一度は読むべき釣りエッセイの傑作です。


私の釣魚大全ってどんな本?


ジャーナリストで作家の開高健(1930~1989)による釣りエッセイ

雑誌「旅」への連載を一冊の本にまとめたものが再版されたもので、この「完本」は新たに数編が収録されています。

執筆時期は1968~75年(私が生まれる前ですね)ということで、現在とは大きく状況は異なりますが、開高健の、上品さに満たされたコップからあふれ出たような軽薄さが読み手を飽きさせません。

現代だとアウトという差別的な表現や、知識人の道楽という観点から釣りを見ている節はやや感じられ、そこかしこに我々「節操のない大衆」と一線を引いている印象はあります。

地元の漁師や業師、そして開高氏のような知識人、この2つの線から漏れ落ちたものは節操なき大衆であり、際限なく魚を取りつくし環境を破壊するモノ、そんな描き方もやや見受けられ、権威主義的な側面もあります。

ですが、どこに行っても受け入れられるその人物の魅力はいかばかりであったか、お会いしたかったなと思います。

私のなかでは昭和を代表する数少ないプロのジャーナリストで文豪、かつ道楽家です。

その印象はいつまでも変わらず、憧れの存在であり続けます。


むさぼりつくす、伸びる人の手

「人の手は長いのである。恐ろしく長いのである。どこまでも伸びる。どんな海底の穴もまさぐり、ひっかけ、ぬきだし、からっぽにしてしまう。」本書p111より

これは沖縄県徳之島を訪れた際、一人の漁師から聞いた話をうけての一節。

一人の漁師がクエの大物を釣る。

そのクエの大物が集まる海底のうわさが漁師の間で広まるころには、根こそぎ捕りつくされていた。

人間の欲望には際限がないことは、今も昔も変わらず、表面的な形を変えながら受け継がれています。


本気のアソビについて

「或るとき、私は、ほんとに遊んでいる人を見たことがある。羽田の岸壁でハゼを釣っていた人である。(中略)竿はただの延竿で、リールなどついていなかった。釣ったハゼはビニールの袋に入れ、装具などは何もなかった。日本酒の小瓶が一本おいてあった。二人はやすやすと岸壁にすわって足をたらし、竿をあげたりさげたりし、ときどき瓶からチビリ、チビリすすった。」本書p24-25より

序盤の一節より。

真剣にならない、無駄に凝らない、執着しない、競わない。

意識して本気で遊ぶことに没頭しようとしている自身への戒めだったのでしょうか。

プライベートで何があったのかは私には知る由もありませんが、後年のオーパやフィッシュオンなどの諸作品は無理に自身を没頭へ追い込むような、本気で遊ぶことを目指した作品であったように私は思ってしまいます。

でも、この岸壁の貧しき夫婦よりは遊べなかったナ、と開高氏自身もあの世で言っていそうな気がしないでもない。

まとめ:昔のエッセイだけど今の釣りブログの源流

ということで、以前読んだことはありましたが、この記事を書くために再読しました。

15年くらい前に初めて読んだとき(25歳)、私はこのエッセイの中で流れる時間の延長線上にいたと思います。

時代が変化したのか、私が変わったのか、定かではありませんが、開高氏の遊んだ時間軸とは違う線の上を私は今、歩いている気がします。

これが、「昔」ということなのでしょうか。

だけど、後に続いた釣りやアウトドアを軽妙に記した作家さんたちも、今多くの人が書いているブログも、確実に彼の軌跡の一枝であると思います。

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