巨匠「開高健」の素顔をのぞける良書

開高健の作品を読み返す機会が増えました。歳をとってやっと理解できるようになってきたのかもしれません。

そんな最中に検索をしていて見つけた一冊です。

「オーパ」連載当時の編集担当をされていた菊池治男さんが書かれたアマゾン釣行時の開高健の記憶と記録です。

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「開高健とオーパ!を歩く」


  • 著者:菊池治男 写真:高橋昇
  • 初版年月日:2021/1/23(増補新版)
  • ページ数:250ページ
  • ジャンル:ノンフィクション

本書「開高健とオーパ!を歩く」の概要

雑誌「PLAYBOY」日本版の編集者として、開高健の担当となり、取材班の一人としてブラジル・アマゾン遠征に同行した菊池治男さんが書かれた、作家開高健の肖像です。

敬意と恐れ、憧れと観察。著者の感情を通して浮かび上がる現役バリバリの油の乗りきった開高健の様子。この本が書かれた2012年の時点ですでに三十三年が経過したブラジルを再訪し、懐かしい場所を訪ねながら記憶を思い起こしていくその過程が、三十三年前の事実とともに綴られています。

開高健も、そして仲間たちも世を去り、少し寂しいブラジル再訪一人旅。菊池さんは自分が見たものはリアルだったのかと、あまりにも輝かしい青春時代を振り返ります。

こんな人におすすめです

「オーパ」シリーズのファンの人。

こういった大掛かりな取材の裏側をのぞいてみたい人

若き編集者が見た巨匠開高健の姿に興味がある人

まだ開高作品を読んだことがなく、その人となりを知りたい人

印象的なシーンとフレーズ

声はどなっているみたいに大きく、「タハッ」とか「ウホッ」とか入る感嘆詞にも音圧があって、一度聞いたら忘れられない声。眼は少し釣り上がり気味で、鋭く、ときどきちらっとわたしのほうを見通してくる。しゃべり口調ははっきりとした関西弁なのに、そこになぜか中国語みたいな訛りがまじる。(中略)そのしゃべりの語彙の華麗さ、風通しの良さ、知的射程のスケール、描写の猥雑な美しさ。開高健の文章がそのまま、呵呵大笑を何度もはさんで、テーブルの上に展開、発散していく。「開高健とオーパ!を歩く」(増補新版)菊池治男 P30~31

著者が初めて開高邸を訪れた時の巨匠に対する印象です。私がイメージしていた開高健もまさにこんな感じ。いざ目の前にしたら縮みあがってしまいそうですが、その後語られる数々のエピソードで、常に気遣いとユーモアを忘れない紳士の側面も多く見ていくことになります。

そこにないはずはない様々な制限を、制限があるからこそ、それらを逆手に取ることから、新しいものの見方が生まれる。(中略)若かったわたしは、小説家の繰り返し言うところの「ものごと、眼ぇのつけどころ一つやで」を眼の前で実践されたようで、ふるえるような表現の可能性を感じた。「開高健とオーパ!を歩く」(増補新版)菊池治男 P30~31

ニューヨークという街をどう書くかと聞かれて、答えに詰まる著者に対し、開高健は「ブロードウェイを縦に歩いて、そこで感じたことだけを書く」と言いきります。

大きなものを表現したいときは、あえてその中の一つの要素に絞って、そこから見えた景色のみから全体を描写しろ、というような教えですね。

ふだんは見えない、気がつかない、意識しないと輪郭がはっきりしない要素があって、そこから物事通してみることによって表現の幅が広がるという、開高健の率直な考えです。

ちなみに、著者は意識されていないかもしれませんが、常に同行していた写真家の高橋昇さんの場面の切り取り方からも多くの学んでいたはずです。息の合った取材チームの様子も本書は余すところなく語っています。

釣りエッセイの一つの集大成として

さいきん開高作品を読み返すことが多くなりました。

読めば読むほど、なんだか自分が頭が良くなったような気がするので心地よいのです。そして、身近にこういった「ふざけた知識人」はそうそういないので、本はやっぱり偉大だなと思います。

生身の開高健。

それを間近に見てきた著者ももちろんプロの編集者であり、開高健と過ごした日々を臨場感たっぷりに書いてくれていて、あぁ、オーパ読みたい!と感じずにはいられないはず。

わたしは開高健のような人へのあこがれ、というか羨望がとても強くあります。それは私とは正反対の人間だと常々思っているからです。開高健が同行者にもとめた3か条(最初は写真家にもとめる、だったが拡大適用された)というものがあります。

  • どこでも寝られる
  • なんでも食える
  • 助平である

というもの。

わたしは自分の部屋でさえ寝られないし、すぐに下痢をするし、どちらかというとむっつり助平だしと真逆のタイプで、開高健が一番好まないタイプの人間かもしれません。だからこそ憧れが強いのでしょう。

著者は本文中で開高健のことを「小説家」と呼んでいます。

これは開高健本人がそう呼ばれることを好んだからということです。大きな説ではなく小さな説をこねくり回すから、というのがその理由らしいです。

一貫して本文中では「小説家」と書かれていますが、増補新版の増補章では「開高さん」と書かれています。ハッとしました。

増補新版のあとがきでこの件についても触れられていますが、開高健が亡くなった年齢を大きく超え「人間として、仲間として」開高健を懐かしく思い出す著者の気持ちを考えると泣けてきます。著者にしかわからない感情を読書を通して共有することができてうれしく感じました。

まだまだ書ききれないほどの開高節と、それをくみ取ることができた著者の器がこの本には多く閉じ込められています。まぎれもない、男の友情と憧憬が織りなす名著です。

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