著作も評価され名声を手にしたルソー
でも、自分らしく生きるということを真剣に考え
立ち止まらずに生き方を探し続けます。
それは、とても勇気がいることだけど、彼には行動力がありました。
迫害期と晩年の足跡をたどってみましょう。
引きこもり生活と逮捕状(1756~1765年:44~53歳)
レルミタージュ(隠者の庵)での引きこもり生活(1756年:44歳)
パリの喧騒と「見栄っ張りで迎合することしか能のない連中」との付き合いに嫌気が差していたルソーは、パリ郊外のモンモランシーに住むことになります。
デピネ夫人というお姉さんからレルミタージュ(隠者の庵)と名付けられた邸宅を宛がわれ、長年の理想の一つであった田園ライフを手に入れます。
ここにきてとうとう彼の人生に平穏が訪れたのか…
この時期は本格的に作家活動をしました。
今までの自分を変えなきゃいけない、孤独である必要がある、そう強く感じていました。
彼の代表的著作群「社会契約論」「エミール」「新エロイーズ」はこの時代に骨子がまとまっていきました。
デピネ夫人がパトロンになってくれたおかげで温寧な生活と学問への没頭が手に入って、彼が長いこと思い描いてきた理想の自分が手に入ったのに、またもルソーはやらかしてしまいます。
好きな人ができました。テヘペロ。
当然デピネ夫人は面白くありません。
友人のディドロ、パートナーのテレーズもデピネ夫人の味方をし(当然ですよね)彼らとの関係も悪化していきます。
この時期から人間不信が度を超すようになり、知人に絶交状を送り付けちゃったりするようになります。
そんな状態なのでレルミタージュを追われモンモランシー内のほかの小さな家をパトロンからあてがわれそこで暮らすことになりました。
モンモランシーにて「新エロイーズ」(1761)、「社会契約論」(1762)、「エミール」(1762)を書き上げたルソー。
これら作品も多くの熱狂と批判の種となります。
私はフランス語はわかりませんが、それだけ彼の言葉は当時の人々の心に刻まれる、衝撃的なものだったのでしょう。
内容もさることながら、ルソーのフランス語は美しいみたいです。
やはり原著を読んでみたいですね…
「社会契約論」も当時の背景から言って十分に物議をかもす危険なものでしたが、「エミール」におけるカトリック教会を否定するような内容は各方面からの批判の的になってしまいます。
ついに「エミール」は焚書扱い。
作者であるルソー自身にも逮捕状が出てしまいます。
逃亡と放浪の生活に(1762年:50歳)
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Allan Ramsay, Public domain, via Wikimedia Commons |
ルソーはパトロンたちに助けられながら生まれ故郷であるジュネーブへの亡命を企図しますが、どこに行っても彼への風当たりは強く居場所がなくなっていきました。
プロイセン領のモチエ村というところに落ち着き先を得てしばらくそこで隠遁生活を送ります。
この時期、上の画像のようなアルメニア服を着て、よく村の中を散歩してたようです。
そこに悲報が届きます。
育ての親であり、愛人でもあったヴァランス夫人の死の報せでした。
すでに落ちぶれていた夫人を引き取り養育する考えもあったようですが、それはかなわず、たいして孝行もできずじまい。
最後に会ったのは1754年でルソーはとても後悔し深い悲しみのどん底で、なお続く迫害に耐えながら静かに時間を紡いでいました。
さぞ辛かっただろうと思います。
このころより妄想に苦しめられ、今まで以上に被害者意識の強い傾向が強まって孤立していきます。
村民からの投石など、なお続く迫害に身の危険を感じ、ルソーはビール湖のサン・ピエール島に向かいます。
フランスの片田舎、さらに小さな島での暮らしは本来植物を愛したルソーにつかの間の安息を与えました。
農民の生活に入り込み満たされた気分になり植物採集も楽しみます。
どんな気持ちだったのでしょうか。
ですがここでも、1年も経たないうちに当局から退去命令が出てしまい、懇願にもかかわらずサンピエール島にもいられなくなってしまいます。
ルソーはこの時期、多くの庇護の申し出を受けています。
フレデリック2世、パスカル・パオリ、詩人のランバート、出版者のマルク・ミシェル・レイ、そしてヒュームからの誘いでした。
ルソーとつながっていることはリスクもありましたが、それだけ名誉なことだったのです。
ルソーはベルリンを目指して途中ストラスブールに滞在しますが、この時に取り巻きがイギリスにいる同じ哲学者であるヒュームに会わせてみようとロンドン行きを彼に持ち掛けます。
ヒュームもOKということで、イギリスに向かうために一度パリに戻ります。
安住の地を探し求めて(1765~1778年:53~66歳)
初めてイギリスへ渡る(1766年:54歳)
親しくしていたコンティ公の城で受け入れてもらい、一時的に立ち寄ったパリでは比較的好意的に受け入れられ、名著を携えての凱旋という形になりました。
不仲になっていた盟友ディドロも和解を持ち掛けますが、結局会うことはできずかないませんでした。
いずれにしろ、パリでは友人知人、加えて市民の大歓迎を受けたのでした。
ヒュームとも落ち合い、ともにロンドンへ向かうことになります。
カレーまで4日間、そこで2日滞在しドーバーにわたりイギリスに到着します。
この時ルソーの愛犬スルタンも一緒だったようですよ。
当初ロンドンでも熱烈な歓迎を受け、ディヴィッド・ギャリックの演劇に招待され強い感銘を受けます。
劇場に居合わせた国王夫妻は舞台ではなくルソーを凝視していたと伝えられています。
それほどの有名人だったということです。
国王ジョージ三世はその後、ルソーのもとを訪ねたようです。
国王が自ら訪ねるなんて余程のことではあります。
ロンドンで観たギャリックの悲劇・喜劇は衝撃的だったようです。でも、英語はほとんど理解できなかったみたいです。
このころから、なんとなーくヒュームにたいして不信感を持ち始めます。
さてイギリスにわたったルソーはヒュームの親切心からの助言を退け、テレーズとともにウットンという田舎町に落ち着きます。
そこは牧歌的な景色が広がる美しい場所で、迫害の日々の中でやっと見つけた楽園みたいなものでした。
周りはルソーに気を使い丁重にもてなしたつもりでしたが、この時期、極度の人間不信と心身の不健康がもとで些細なことで周りの人との軋轢が生じます。
ヒュームはそんな状況を何とか打開しようと画策しますが、それらは裏目裏目に作用し、結局ルソーはヒュームを信じることができなくなり、イギリスにきてわずか5か月でヒュームとの絶交を宣言してしまいます。
ヒュームとの論争は当時のヨーロッパで大きな反響を呼び出版物にもなりました。
現在の週刊誌の、芸能人のゴシップみたいなものでしょうか。
嫌になったのでフランスに帰ってきてしまう(1767年5月:55歳)
フランスに戻ったルソー。
でも、パリ高等法院の逮捕状はまだ有効で身を隠さねばならない状況は変わっておらず、パトロンたちが彼の居場所を確保するために手を尽くしてくれます。
コンティ公はトリーにあった城をルソーに提供し、とりあえずルソーはそこに落ち着くことができました。
そこに1年滞在したのちにルソーはぶらっと旅に出ます。
リヨンを経由し懐かしいシャンベリーを訪れ、ヴァランス夫人の墓参りをすることができましたし、この時期にテレーズともついに正式に結婚しグルノーブルの農家で生活をしながら「告白録」の執筆を開始します。
パリでのんびり自由に過ごす(1770年:58歳)
1770年、ルソーは友人の反対を押し切りパリに帰ることにします。
依然として逮捕状が有効な状態でしたが警察も著名人もそれを見て見ぬふりをし、ルソーはパリで自由に生活することができました。
今流行りの「上級国民」的な感じでしょうか。
このパリでの生活の中で、この記事を書く元ネタとなっている「告白録」を完成させ、出版する気はなかったので文章の一部を朗読会で披露しました。
とにかく彼は自身の潔白を証明し名誉を守りたかったようです。
死後に名誉が傷つけられることだけは避けたかったようです。
数回行われた朗読会の最終回はなんと17時間にも及んだそうです。
長すぎじゃないっすか…ルソーさん。
彼の情熱というか執拗さがうかがわれます。
ちなみに「告白録」が本という形で出版されたのは彼の死後、1782年です。
この朗読会、デピネ夫人が自身のプライバシーを披歴されているとして警察に中止を要請。
警察がルソーを聴取し、ルソーは朗読会を取りやめることに。
「ポーランド統治論」「対話~ルソー、ジャン=ジャックを裁く」の執筆もし、体と精神を病みつつも規則正しい生活を心がけて活動をつづけました。
心身の療養のため郊外に転居する(1778年:65歳)
7年のパリ生活ののち、ルソーは郊外のエルムノンヴィルという場所に移り住みます。
病気療養と妻テレーズの看病のため困窮状態にあったところを、パトロンの一人であったジラルダン侯爵が手を差し伸べてくれました。
1778年7月2日、ルソーは音楽教師の仕事に向かう準備をしている最中に突如倒れそのまま帰らぬ人となります。
死因は脳卒中だと伝えられています。
1776年、パリの街角でグレートデーン(とても大きな犬種)にぶつかって地面に頭を強打してしまった、その時の脳へのダメージが影響しているとも言われています。
傍らには妻テレーズひとりだけがいて彼を看取ったそうです。
まとめ:何かとつらいことが多かった人生でした
彼の死については様々な憶測を呼びました。
彼は気が狂っていて自殺をしたとか、そんな噂も飛び交ったようですが、死の直前まで交流のあった人たちの証言によると、彼は正気で穏やかな様子だったといわれています。
7月4日、彼の亡骸はポプラ島に埋葬されます。
16年後の1794年、彼の遺体は栄誉を称えられパンテノンに合祀されました。
ヴォルテールの亡骸の近くです。
皮肉なことにヴォルテールはルソーを攻撃した一人です。
向こうでは仲良くやっているのでしょうか?
著作は広く評価されたが、彼は生涯貧しかったようです。
年金に頼るのも嫌だったし、権力者の世話になるのも耐えられなかったんだから仕方がない。
でも生きていかないといけないので結局いろいろな人に助けてもらった。
主張を通したまま自立することは、彼にも難題でした。
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