前回の記事ではルソーがジュネーブで生を授かってから
少年時代までを見てきました。
今回は多感な青年期、そして評価をされ始めた円熟期を
簡単に見ていきましょう。
それにしても、あちこち旅をしていますね。
青年期のルソーの足跡(1724~1731年:12~19歳)
アヌシーでヴァランス夫人に会う(1728年:15歳)
ジュネーブの親方のもとでグレながらも奉公を続けていたルソー少年でしたが、ある日城門の閉門時間に遅れ、また親方から叱られるのかぁと考えたら、このまま逃げちゃえという考えに思い至り、ジュネーブを後にします。
今で言う、バイトバックレ的な出奔です。
ルソー15歳の時です。
目の前で城門の跳ね橋が上がる光景は、宿命の前兆のようだったとルソーは晩年振り返ります。
人生にはそういった象徴的な出来事がありますよね。
ここから1年間の放浪生活になります。
トリノに行き、コンフィニョンにたどり着き、そこで出会った司祭からある人を紹介されルソーはアヌシーへ向かいます。
そこで待っていたのは貴婦人、ヴァランス夫人です。
「わたしの心に世にも激しい愛情と、その後いつまでも失わなかった信頼感をうえつけてしまった」
とルソーに言わせしめるほど、彼の人生に大きな影響を与える女性となりました。
この段階では男女の関係にはなっていませんが、のちに愛人関係となります。ヴァランス夫人は13歳年上、現代では完全にアウト、ニュースに出てしまう関係ということです。
ルソー15歳、ヴァランス夫人は29歳、なんとも艶めかしい。
カトリック改宗と初期の流浪と職を転々(1729年:17歳)
ヴァランス夫人はルソーをカトリック改宗のための救護院へ送ります。
2か月をその救護院で過ごしその後、放浪、職を転々としますが何をやっても長続きせず再びアヌシーへ戻りヴァランス夫人と再会します。1729年、ルソー17歳の時でした。
再会後、二人の関係は、母と子のような、姉と弟のような親密なものになり、ルソーはここで幼少期に得られなかった存在の確かさを一時的に得て充足感を感じました。
神学校に通ったり、聖歌隊養成所に入所したりしますが、これらも長続きせずに(もはや鉄板です)ヴァランス夫人のもとへ帰ってしまいます。
ヴァランス夫人は母であり恋人であり、支えてくれた恩人でもあるけど、それと同時に依存の対象であり自立の妨げになりました。
初めてのパリへ(1731年:18歳)
そんな中、ヴァランス夫人が突然いなくなってしまいます。
どうやらパリへ行ってしまったようです。
保護者を失ったルソーはまたも放浪生活に身を落とします。
辛い時期も幸せな時期も長く続かないのがこの人の生き方なのでしょう。
女中に付き添ってジュネーブ、ニヨンに行き、ここであの生き別れた父とも再会しますが一緒に暮らすことにはならず、その後ベルンで詐欺師と行動を共にしているところをフランス大使館に保護されパリへと行くことになります。
ルソーは思い立ったらすぐ行動を起こすタイプですよね。
すごく衝動的です。
多くの仕事を成した円熟期(1731~1756年:19~44歳)
シャンベリーで二度目のヴァランス夫人との生活(1732年:20歳)
この時から二人の関係は肉体関係をともなう愛人の間柄となりました。
この時期のルソーも測量補助、音楽教師、などさまざまな仕事に挑戦しますが、これという軸を定めることができずに体調も悪化していきます。
自分はもう長く生きられないのでは、そう悟ったルソーは今まで以上に有意義に時間を使おうと幼いころよりつちかった読書力で哲学、幾何学などを独習し幅広い教養を身に付けます。
ヴァランス夫人との愛人かつ親子のような満たされた関係の中で、心落ち着く郊外の田園風景の中で、興味の赴くままに勉学・研鑽を重ねたこの時期をしてルソーに生涯で最も幸福な時期だったと回想させています。
このころ、ルソーは資産家であった母の遺産を相続し、その一部をヴァランス夫人への援助の返済に充てています。
ですが、やはり、そんな幸せな日々は長く続きません。
モンペリエへ医師に会いに行った2か月の間に、ヴァランス夫人に別の若い男ができてしまいます。
ちょっと夫人!何してくれてるの!
ルソーはヴァランス夫人の庇護を離れ独立することを決意し、リヨンに家庭教師の職を得てマブリ家に逗留しますがこの仕事も長続きせず、かといってシャンベリのヴァランス夫人のもとへも帰ることはできません。
一念発起して一旗揚げてやろうと、野心をもって2度目のパリへ向かうのでした。
成功を夢見てパリで再挑戦(1742年:30歳)
新式の音符表記法を携え、意気揚々とパリに凱旋し有名になってやろうと活動しますが、期待していたほどはうまくいきません。
ここでも細々と家庭教師などをしながら粗末な生活を送ります。
ですが生来の魅力と知性でパリ社交界で顔を広げ一文化人の端くれとしての日々を送り、百科全書派のドゥニ・ディドロと親しくなり、絶世の美女と謳われたデュパン夫人、時代を代表する知識人であるヴォルテールとの知己も得ます。
本当は音楽家として、文化人として生きていきたかったルソーですが、それでは食べていけなかったので大使秘書の職を得、ヴェネツィアに赴任します。
またしても長続きせず、11か月で職を辞しパリに戻ってきてしまいますが、この時期にイタリアの音楽、とりわけオペラに大きな影響を受けます。
パリに戻ったルソーはこの時、生涯を共にする大切な人に出会います。
当時滞在していたホテルの女中であったテレーズです。
教養もなく内気なテレーズにルソーは共感、ヴァランス夫人の代わりに心を満たしてくれる存在となっていきます。
懸賞論文で一躍ときの人に(1751年:39歳)
職と住まいを転々としてきたルソーも気が付けば39歳、社会的には何もなしえないまま人生を終えるのかと思っていた矢先に、懸賞論文の広告を目にします。
課題は「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」というもので、ルソーは閃いてその場から動けなくなってしまうほどでした。
ルソーはパリから約12キロ離れたヴァンセンヌへ歩きながら草稿をしました。
さすが徒歩の哲学者。
早速アイデアを友人ディドロに打ち明け、その助けを得て論文を執筆、見事入選を果たし一躍脚光を浴びる論壇のスターになります。
今までの苦労と下積みが一気に花開いた瞬間でありました。
あれこれ考え続けるのは決して無駄ではないようです。
人間は生来、善の存在で、堕落するのは社会と接するからなんじゃないかな。
そういう考えを論文としてまとめたのです。
あんなに欲していた名声、自立、だけどそれらをいざ手にすると反骨精神が彼の中に湧き上がってしまいます。
自己革命の景気が成功体験、というのはよくあることでしょうが、手にして初めて成功は社会によって作られたものであり、本来自分が欲していたものではなかった、ということに確信を持ちます。
パトロンの申し出や貴族からの年金もことわり、今度は他者からの評価と判断から抜け出し、しっかり自立し、自分が良しと判断する生き方をしていこうと決心をします。
東大生をやめる権利は東大生にしかないということです。ちょっと違うか?
さて、そんな、ある意味でひねくれた態度は知人からの批判の的となってしまいます。
だまってスターを演じればいいじゃないかと、周りが思うのも無理はない。
ということで、ルソーのもとを去る人が多くなっていきました。
パシー、サンジェルマンできっちり仕事(1752~53年:40歳)
あれこれ悩んだことが原因か、やはりどうも体調がすぐれないルソーは療養のためパシーに移動します。
そこで「村の占い師」を作曲、この曲はルイ15世の関心を惹くほどにもてはやされます。
だが謁見を拒み生涯年金の申し出も固辞し、これも周囲の批判を助長することになってしまいました。
謁見を拒んだ理由は自由な言論のためなのか、体調のためなのか、定かではありません。
いつも権力者は思想家を囲い利用しようとする。
確かに年金は助かるけど、長い物に巻かれるのは気が進まなかった、という説も。
そののち代表作の一つとなる「人間不平等起源論」をサンジェルマンで書き上げ、これも人々の関心を強く引く大著となります。
すらすら言葉が出てきて、それらがつじつまが合いだす瞬間、ルソーとは違う次元ではありますが、私たちにも理解できる感触でしょうか。
自立し満たされた状況下での見事なまでの社会・文明批判を展開したのです。
かっこよさの中にあるかっこ悪さが、ルソーらしくて私は好きです。
テレーズとともにジュネーブへ(1754年:42歳)
サンジェルマンにて「人間不平等起源論」を執筆した翌年、1754年、42歳の時に望郷の思いからルソーはテレーズを伴いジュネーブに凱旋します。
以前カトリックに改宗していたため、プロテスタント国であるジュネーブ市民たるために再度ここでプロテスタントに改宗。
カトリックへの改宗は生き抜くためでしたからね。
さて、ジュネーブ市民のルソー評はどうだったかというと、あれ?そんなに良くもない。
反応はイマイチ。
身辺整理のため一度パリに帰ったっきり、ジュネーブには戻りませんでした。
自分自身を「ジュネーブ市民、ルソー」と呼ぶほどに愛したふるさとでしたが、当時のルソーには冷たい街に映ったようですね。
まとめ:栄光をつかんだように見えたが…
今回は青年期、才能が花開いた円熟期を見てきました。
なかなか一筋縄ではいかないルソーの人生ですが、よく言えば本能に素直に従う、悪く言えばとても衝動的で被害者意識の強い人、そんな印象を私は受けます。
そのあたりがどうも、他人とは思えないのです。
多くの共感を得る理由でしょう。
次回は迫害を受ける晩年期を見ていきます。
この記事の元ネタである「告白」が書かれた時期ですね。
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