【2019年釣りを通して考えた】没頭できない自分と意味のない罪悪感

2019/12/31

テンカラ

t f B! P L
しばらく更新していませんでした。

昨年、夏の2か月間ほどは釣りに行かなかったり、

あれやこれや、得意の思索にふける時間が多かったのです。

大晦日なので、今年感じたことを釣りの側面からまとめました。

そもそも人間は無意味で負の存在

私はどうしても物事に没頭することができません。

どんなことにでも、人間がすることには負の側面というか行動の理由付けや論理的な説明が困難な部分が存在します。

人間として現代人としてごく普通に大人しく生きることですら、私には説明が難しく、そうなってくると死んでしまった方がいいと思うことすらあるのです。

(本気で思いますが、病んだ精神が発するものではなく、あくまでも理性的に、です。だから私は元気なのでご心配なく。)

さて、話を釣りに戻さなくてはいけません。

私もあなたと同じように情報を仕入れるために誰かのブログを見たりします。

皆さんものすごく行動的かつ研究熱心で、大いに釣りを楽しみ、いかに最大限の結果を得るかを期して釣りに向き合っています。

とても純粋だと思います。

私はこれを羨ましいと感じます。

けっして皮肉ではありません。いや、やや皮肉ですね。

何のために私は釣りをするのでしょうか?

そこに意味などは存在しないことは、頭ではわかっているのです。

でも、感じてはいけない罪悪感や空虚感、自分の行動の理由付けをどうしても行ってしまうので、私は心の底から釣りを楽しめません。

具体的に言うと、たかだか一人の人間の楽しみのために、製造使用廃棄にわたって環境に負荷をかけ続ける自動車を使い、その地域の人たちの共有財産、かつ貴重な野生動物の住みかである川に釣り糸や毛ばりを残す。

そんな権利がはたして我々にはあるのかと。

無いと思いますが、じゃあ釣りをやめるべきなのでしょうか?笑

私一人が釣りをやめても何も変わりませんよね。

ほかにも雑多なことが頭をよぎります。こんなことを考えながら竿を振るのは、楽しくはありません。皆さんもお分かりだと思います。
 
そんなこと考えないようにすればいいじゃないかと、本も他人も言うのですが(今流行の鈍感力、気にしない能力)どうしても考えてしまう性質をもって生まれた一部の人間には無理なことでしょう。

我々が意識的に呼吸をおしまいにすることが不可能なように、そう、まるで呼吸するかの如く己を客観的かつ倫理観に照らし合わせてみてしまうのです。

あぁ、生きるのがつらい、でも生きていかないといけない

そのつらさが経済的困窮のような直接的かつ生存にかかわるようなことではなく、社会と自分がマッチしていないという、まるで陸に揚げられた魚のように呼吸が苦しく、本来いるべき場所ではないところでバタバタもがいているだけだから、つらいのです。

さて、こんな不愉快でくらーい話で今年は閉めようと思います。

なんとも読者のことを考えない、無責任な投稿となりました。

皆さま、良いお年を!!


2021年追記

やはり釣りは素晴らしく、私の存在も替えが利かないものです。

縛りを設けて釣りを楽しんで生きていくことにしました。

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